束の間の静寂の後、戦火は再び燃え上がった。繰り返される。途切れを知らぬ輪舞が環るように。そう、其れは永遠に変わらぬ此世の摂理。平和を願う、海の国の女王は。夜に愛されし魔の国の女王は。そして其所に仕える者達は、円環を断つものを見出せぬまま続く、荒廃した世界に何を思うのか。ただ、駆けよ。深い深い群青色の海が、血染めの赤に変わる前に。
■大陸地図:http://www.geocities.jp/kichi_k/LG_map/top.html(PC用大判・作成:クロゼット様)http://lgtisiki.blog89.fc2.com/blog-category-8.html(携帯用・作成:コルナ・コルチェット様)土地勘の無い方が居らっしゃるなら、どうぞ地図を御利用下さい。自分と相手の位置把握はとても重要な事柄です。地図の作成と保管に携わり、提供下さっている方々に感謝を。
■禁止事項・他者の行動・行為を著しく制限、または指定する描写・単騎で戦局に多大な影響を与える描写・俗に言う無敵と思われる行為、行動や描写・世界観が大幅に無視されている描写・その他、不躾であったり、不快に思わせる行動や描写上記の行為は、他の参加者様への御迷惑となりますので御控え下さいませ。それでは戦場に赴く者達に、御武運がありますよう。
征く手には、ただ黒い黒い夜闇が在った。雲の切れ目より、時折注ぐ月と星の光だけが海面を煌めかせる。少々残念な気がしなくもない。此れが白昼の航路で在ったなら、蒼穹と青海の織り成す絶景を堪能出来た筈なのだ。無論、我らは遊びに此所へ来ている訳ではなく。故にそういった景観を望む事は不謹慎ではあるのだけれど。開戦に際してガーゼルを出立した船団は、ゾディア領の東を迂回し、今はアンプルマの北を航行している。順調に行けば、もう暫くでアクアマイト領海に達するだろう。しかしまぁ、何せよ敵は海の国。水軍を保有している事は確定的に明らかであり、そもそも"順調"に行く筈も無いであろうが。
見張り台から見える景色は、青一色だった。それ以外、全くの無。手すりに背を預けて、空を仰いだ。鳥一匹、飛んでいない。――アクアマイトが、何処かと戦うと言うのなら。アクオール付近まで敵を誘き寄せて、迎え撃つのだと思っていた。自分達の庭で。自在に動くことの出来る、海域で。しかし。今自分がいるのは、アンプルマ山脈の近くの海上。ずっと、待機命令が出たまま。陸に近づくにつれて、海の中から生えているゴツゴツした岩が、増えていく。ちょうどそれに隠れる様に、ボクらの船は在った。
一応。アクオールから既に、マーメイドやカエル達を乗せた船は北上を始めているらしい。しかし、それは。「――囮」低く呟いて、確認する。そう。アクオールからの水軍は囮。彼らと相手軍が海上で接触する間に、アンプルマから出港したボクらが相手の背後から襲撃して挟み撃ちにする。(…だった、ような)半分寝ていた、作戦会議。記憶が怪しい。視線を、海に戻した。まだ、待つ必要がありそうだ。波の音で、不気味な静寂が塗りつぶされる。
船団を構成する、その中の右翼に配置された一隻。救護室で待機を命ぜられていたが、出発直後から患者と大差ない状態に陥っていた。蒼白い顔で寝台に腰掛け、背を丸めてぐったりとしていた。頭痛や眩暈と典型的な乗り物酔いの症状。小さな軍船故、揺れも小さくはある。偶々だ。長時間の振動に慣れていないのと、前日の睡眠不足が災いして船酔いになってしまったのだ。昨夜は夢見が悪かった。「すみません…いえ、有難うございます…」体調管理のできない自分に恐縮する。船医から煎じ薬と水筒を受け取ると、水でぐいと流し込んだ。酷い苦味だが、この気分の悪さが治るなら耐えられるというもの。暫くすれば効いてくる筈。
今の自分は時間の感覚が遠のいている。現在地はどの辺か尋ねると、アンプルマ山脈の北とのことで、南下すれば、じき国境に差し掛かるのだそうだ。しかも相手は海を熟知した国。接触する前にまともに動けるようになって居なければ話にならない。外からはざあざあと波間がたてる音が籠りがちに聞こる。だのに、情緒に溢れた潮騒も余裕を欠いた現在は雑音扱いだ。ぐらつく頭を刺激して、気分の悪さに拍車をかける。体調が良ければ、聞いていられただろうに。束の間の静けさを。
海戦は我の本領では無い。どちらかと言えば、陸戦。権謀を巡らせ、術数を張り。相手の粗を突き、陥れ、搦め取る類いの戦術を好む。"揚げ足"と言われれば、なるほど。微笑みながら「はい」と答えよう。だから、先程まで催されていた作戦会議に立ち入るすべはなく。ただ出来たのは、瞼を閉じて聞き入る事だけ。或る種異様な程海戦に精通していた、彼の鬼面の御仁の指示が在ればと、些か残念に思わなくもない。
内容はこう。我らは先ず、中立拠点トラーゼンに寄港。其所を橋頭堡とし、補給等々を済ませた後に船団の半数が南下。バロエラ、海都アクオールを目指す。残り半数はトラーゼンに留まり、退路の確保と"緊急事態"に備える。既に敵陣営がトラーゼンを制圧している可能性も在る。が。その時は一戦交えれば良いだけの事。勿論、事前の偵察は不可欠であろうけれど。もう数時間もすれば、空が白み始める。トラーゼンへの寄港は夜明け後になるだろうか。甲板に肘を付き、見える筈も無い彼方の敵へと視線を向けた。
――チリ、「―――…」右腕の疼き。静かに目を開けた。仲間と交代で見張り台に上り、海を監視する。そんな夜中を過ごす。――チリ、チリ仮眠後のぼうっとする頭を、不快な痛覚が刺激する。ここの所、調子のおかしい右腕。激痛では無いが、何となく苛つかせる痛みが時折走る。不機嫌な顔で乱れた髪をもぞもぞ掻きあげつつ窓の外を見遣る。「…まだ暗いじゃん」あまり寝れなかったことを自覚させるほどに、まだ外は暗かった。それが余計。なんだか、ぐったりさせる。
『ソワレ。起きているのか?』傍にいた上官に、声をかけられる。『出港だ。準備しろ。寝ている者を起こせ』「…どちらへ」『トラーゼンに向かう。そこから南下だ』ふむ、と首を軽く傾げる。「…挟み撃ち」『うまくいけばな。剣の用意をしておけよ。もしかしたら、ということもあるやも知れん』頷き、剣を吊るベルトを腰に締めつつ駆け出す。到着は、夜明け後になるだろう。そうして、ボクらの船は悪夢に誘われて北上する。
効き始めた薬の御蔭で、眩暈は残れど頭痛は治まってきた。腰にさげた応急鞄からミントの葉を取り出す。くるり、と鼻先で回転させて。爽やかな香りで気を紛らわせていると、甲板から降りてくる足音が一人分。顔を出した兵士が、私たちに作戦指示を告げる。トラーゼン寄港後は駐留組に回れとのことだった。戦闘力の低い支援部隊は、最前線より多少離れているべきだろうから否はなし。「了解致しました。引き続き警戒を御願いしますね」真夜中の海。もし海中から来られれば堪ったものではないだろうけれど。再び静けさを取り戻した室内にミントの香りが漂う。しらじらと時刻が過ぎてゆく。船団は、南下を続けている。
トラーゼンの港より彼方を臨む。空と海の境界すら曖昧にしてしまう蒼は、次に来る時はヴァカンスで、と心に決めざるを得ない程。偵察部隊より『トラーゼンに敵影ナシ』との報を受け。数時間前、我らは此所に上陸した。先発隊は既に補給を終え、アクオールに向けて出港済みだ。港は人で溢れている。指示を飛ばす士官に、物資を運搬する軍人達。そして、ソレらを遠巻きに見遣る王都の住民。関係の無い都市を戦火に巻き込みたくはないし、そうならないよう悪夢は取り計らうとも聞かされた。万一に備え、住民には避難勧告が出される手筈になっている。
トラーゼンの陥落は我らが退路の寸断と同義。元より此の地を敵に踏ませる積りは無い。だから我はトラーゼンに駐留すると、指揮官に申し出た。柔らかな風が髪を、肌を撫でて行く。塩を含んだその、普段なら我の機嫌を損ねるだけの海風。けれどソレが、今は何故か心地良いモノに感じられる。不思議ですわね。首に巻き付いている使い魔達をあやしつつ。会議室に向かう道すがら、そんな事を考えていた。
双眼鏡を覗く。――あ。「…」無言で双眼鏡を目から離す。『どうかしたのか?』傍らの兵士が声をかけてくれた。目を瞠ったままトラーゼンのある方角を見つめるボクを心配してくれたのだろう。「ボクを降ろして、そのまま行ってください」視線はトラーゼンに向けたまま、告げる。首を傾げる彼。「悪夢があそこに在る。――でも」双眼鏡を手渡して、うっすら微笑む。「おそらくそれが最良。ボクは、船では何も出来ない」――数時間後、ボクはトラーゼンに立つ。
街中を、歩く。剣を吊った、闇エルフの小娘。異様だろう。民は。ちらりとボクを見、視線を剣に移し、慌てて逸らす。――ごめんなさい。貴方方の平穏を乱すこと。どうか、少しだけ我慢して。人気の無い路地裏に足を運ぶ。潮風に踊る紫の髪。すらりとした後姿が目に入る。――見つけた。そう。双眼鏡で見つけた、彼女だ。彼女が悪夢の人間であること。ボクは、知っている。立ち止まると、ザリ、と靴底が砂と擦れて音を立てた。「――どちらに行かれるおつもりです。悪夢の誘い手」剣の柄に手を添え、その背中に、問いかけた。
兵士に続いて船を降りた。あぁ、やはり地に足をつけている方が落ち着ける。ふわふわした感覚が付き纏っているが、動き回っていればその内消えよう。指示により、衛生班は物資運搬の手伝いに回ることとなった。しかしこういった仕事は私には不向きと判断するのは尤もで、物資調達班について回れとのこと。此処に来るまでに消費した食糧品に水の補充を最優先に。行く先々で耳にする言葉は似通っていて、不安や嫌悪感。現地住民の交わす会話は声量を抑えていても、張り詰めた雰囲気ではやけに大きく響く。――…御免なさい。まずは此処から、と兵士が店主を呼ぶ。店先で交渉を始めた彼等の後方に控え、住民達に胸中で詫びた。
慌ただしく動く街の景観にも脇目を振らず。ただ、司令部への道を歩んでいた。もう暫くで軍議を兼ねた各部署への通達が在る筈なのだ。少々長い間、港よりの風景を愉しんでしまったツケなのか。遅刻の醜態は晒せない。自ら王都の防衛を申し出た身としては。粛然たる空気の中、遅れて司令部の天幕を開けようものなら。なるほど、同僚達の白眼視を痛い程に浴びる事請け合いであろう。『――どちらへ行かれるおつもりです。悪夢の誘い手』だが。こうも鮮烈な呼び声を掛けられては、幾ら我と言えど歩を止めざるを得ない。ザリ、と響く靴音は彼女が石礫を踏み締めた証。
向けられた敵意は激烈ではないにせよ、揺るぐ気配もまるでない。詰りは背後を取られた、と。全く、油断も隙もありませんわね。アクアマイトは未だ海上と思っていただけに、現在の状況は些かしてやられた感が在る。尤も――「貴女がアクアマイトに属していらっしゃったとは。 存じて居りませんでしたわ、マーシェ様」その程度で動揺する心臓は持ち合わせていないけれど。否、元より"無い"の間違いか。生憎な事に、これからの軍議は欠席だ。此所は裏路地。人気は皆無。少々暴れても問題無いであろう。飽くまで周囲の建築物を破壊しない範囲で、だが。凍てる殺意を身体に纏い、闇エルフの少女へと向き直った。
彼女は立ち止まる。ボクはじっと、背中を見つめる。――沈黙。此処では、波の音も聞こえない。ただ、静寂のみ。じわじわと足元から満ちていくような。『貴女がアクアマイトに属していらっしゃったとは。 存じて居りませんでしたわ、マーシェ様』聞き覚えのある声。こちらに向き直る彼女の顔。――刹那。ゾク、と背中を駆け上がる悪寒。殺意。心臓を貫くような、衝撃。右腕が、疼いた気がした。正直、一瞬怯んだ。これほどまでの恐怖、初めてかも。
――落ち着け。声をかけたのは、ボク。その結果を引き受けるのも、ボクだ。スゥ、と小さく息を吸って吐く。「…ボク自身、この国に居るのは予想外だけれども。旅人だもの、何処に居てもおかしくないし――」剣を抜き、準備運動代わりに軽く振り回し、構えて。「何処で貴女と出会っても、何ら不思議では無い。そうでしょう?――ゼレナリュシュさん!」言い切ると同時に素早く二歩距離を詰め、三歩目と同時に横に剣を振る。狙うのは、右腿。
肉薄と同時に薙払われた剣。その軌道から逃れるよう、バックステップで距離を―――「ッ………!」右大腿に鋭い痛みが走った。紫色の布切れと血液の飛沫が地面に散る。―――疾い。少々驚嘆だ。受けた傷は浅くとも、今の斬撃からは確かな殺意が感じられたから。「ええ、その通り。不思議ではありませんわ。 何時かのコロシアムでもそうでしたもの」
一歩後退。そう囁きつつ、頭で状況を整理する。此の狭い路地裏で距離を稼ぐ事など出来はしない。ソレはつまり、魔術発動に多大な時間を裂けないという事。魔を励起する前に、彼女の剣でこちらが致命傷を負う。一節二節の詠唱を紡ぐのならいざ知らず。なら。「遠慮は要りませんわ。全霊で征きなさい、我が最愛の僕」右腕に拠る使い魔達に命ず。六本の触手はそれぞれ異なる軌道を描き、ダークエルフの少女目掛け、上下左右から突撃した。
浅かった。さすがだ。悪夢の誘い手。連撃を叩き込もうと右腕を躍らせ、開いた距離を埋めようとする。が。『遠慮は要りませんわ。全霊で征きなさい、我が最愛の僕』氷のような。命令。誰に?――言うまでも無い。「!!!」咄嗟に、後方に飛ぶ。その瞬間、思惑通り六本の触手が此方に突撃を始めた。1本目を身体を自転させてかわしながら、ほぼ同時に迫る2本目と3本目をその勢いで斬ろうとする。そんな不安定な体勢の足元を、別の触手が掬った。「なッ…!」バランスを崩した身体を、もう何本目かわからない触手が殴り飛ばす。
「がはッ!!」壁に強かに身体を打ちつけ、地面に落ちる。「げほげほッ…う…」壁に手をつき、よろよろと立ち上がる。「…これは、貴女をこの先に進めるわけにはいかないな」手に魔力を集める。剣を振るには、まだ身体が痛む。「――お引取り願えないかな!」下級の、氷魔法。冷気の矢をg5本、彼女へと飛ばす。
詰る所、我の武器はソレ自体なのだ。強靱な腕力と変則的な軌道、そして一息の内に放たれる六度の連撃を躱しおおせた者など、未だかつて存在しない。果たして今もそうだった。が、しかし。記憶を探り返す。我の覚えている彼女は、果たしてこうも…いや、止そう。最近は戦闘の最中、物思いに耽る事が多いから困る。此れも歳のせいですかしら。全く、歳は取りたくないものですわ。よろよろと立ち上がる彼女を見、再度意識を研ぎ磨き――『…これは、貴女をこの先に進めるわけにはいかないな』彼女の掌へと収束する魔力が、我に次弾の訪れを告げた。なるほど。此の距離が在らば、魔を紡ぐ事も可能だろう。
けれど、その条件は我とて同じ。二節で構成される詠唱を謳う。具現させしは"砕キノ氷柱"『――お引取り願えないかな!』「お断りですわ」放たれる冷気の矢。その進路を塞ぐ様、五本の凶刃を投擲した。奇しくも互いに同じ属性だった矢群と柱は、空中で衝突し、硝子の砕けるような音と共に爆散する。が。「ッ…」僅かな衝撃。けれど非情な程に確かな冷たさ。そして、我が身体に氷の矢が突き立っている事を理解した。迎撃し切れなかったのか、胸元に一本だけ。
渋々と応じる店主の警戒が手に取るように分かる。ちからなき者。数カ月前の自分とて同じ立場だった。「あの…必要な物資さえ分けて頂けましたら、すぐに出港致します。 私共としましても、中立の方々を巻き込む事態など…極力避けたいと思っておりますの。 どうか、船まで手配を御願いできますか?」進み出て、兵士の横から口を挿むと頭をさげた。己を知る経験がすべてではない、けれど悪戯に不安を煽るなど以ての外。時間の問題もある。邪魔者は早々に立ち去るべきだ。そう、すぐに――ややあって、消極的ながら了承と耳に届く。さらりと書類にサインする音が続き、私は今一度頭をさげた。「有難うございます…」
―――パァン―――五本の氷の矢。迎え撃ったのは、同数の刃。自分の放った矢は、ほとんどアレで砕け散ったみたいだ。矢を砕きながらも、此方に何本か向かう刃。「…っ」避けられない。覚悟を決める間すら無い。その瞬間。チリ、と右腕が疼く。「――」その痛みに反応したのは頭ではなく、身体。頭は真っ白なまま躍る、右手に握る剣。剣を掬い上げるように振り、刃を1本跳ね飛ばす。瞬間、脇腹に激痛。「っ――」ドッ、と受け止めた衝撃で身体が揺れた。目線だけを、脇腹にやる。
――刺さっている。じわり、と滲み出る熱。赤。でも、氷のせいで冷たい。ような。「う…ぁ」地面に片膝をつく。ぱたた、と落ちる自分の赤い血。痛みで呼吸を荒くしながら、相手を見据える。彼女の胸元にも、1本。でも、あれだけでは。「…ま だ…」まだだ。相手は、倒れていないのだから。剣。剣を、手放すな。絶対に。立ち上がれないまま、ぐ、と剣を握る手に力をこめる。
氷の矢に貫かれた其所が、無慈悲な程に冷えて行く。幾ら血の通っていない身体で在ったとて、零下の魔術が体力を奪う事実に変わりは無い。そう、まだ敵は倒れていないのだ。あれだけの連撃を受けてなお、気丈にも。本来ならば、今。総力を以て打倒すべきなのだろう。ただ、気に掛かる事が一つ。先程、彼女が氷柱を撃ち堕とした時。あの時の尋常ならざる動作は、放たれた殺意は一体…?「…何か、隠していらっしゃるのかしら?」ええ、とても"気になって"しまいましたわ。悪い癖とは理解している。が。好奇心を放棄できる程、悪魔は無欲な存在ではない。三本の氷柱を投擲する。過たず、狙いはその右腕へ。
目標量には足らないが、売ってくれるだけいい。次を目指して店を後にする。暫く無言で進んでいたが、しんがりを務めていた兵士が背後で怪訝な声を上げた。伝令が此方を目指して近付いて来ると言う。問題が発生でも? 足を止める。待つ間は長さに関係なくやけに悪い想像を掻き立てるが、違った。海都アクオール陥落。あちらの都もとても美しいと聞いている。痛ましくも、最前線で戦わずに済んで嬉しいと感じるのも事実だ。「吉報でようございました。 私は一時駐留で調達完了したのち帰還致しましょう。 また船酔いする点に置いてだけは、辟易しますけどね…」軽口とぼやきを織り混ぜながら、街路を進んで行った。
『…何か、隠していらっしゃるのかしら?』どきり、と心臓が跳ね上がる。自分でも、おかしいと思ってはいるのだ。ボクは、単なる旅人。戦人ではない。旅と言っても、剣の修行をして回っているだとか、そんなことは無く。むしろ観光。趣味。好奇心。それなのに、ここ最近。右腕が疼く。我が身を全力で守護するように、剣を振る力が倍増する。今までの自分からは考えられないぐらい、ありえないぐらい、戦えている。――三本の氷の柱が飛ぶ。それを見た瞬間、右腕が発火するように熱を帯びるのがわかった。
「…この右腕は、ボクを生かしておきたいらしい」氷柱に向かうように、駆け出す。勢いを生かして1本剣で跳ね飛ばし、2本右腕で受けた。刺さった箇所から、血が吹き出す。気にするな。生きていればそのうち塞がる。走る速度を緩めず相手との距離を縮め、大きく縦斬りを繰り出す。「ボクは心臓に氷が刺さったまま立っていられる貴女のことが気になるけれども、ねっ…!」
ぞく――我が魔術は精確に彼女の右腕を撃ち抜いた筈だった。けれど。血飛沫を散らしながら、それでも邁進して来る姿に。気圧された。此の我が。有り得ない。初めての経験。「クッ…」跳躍し、振るわれた剣の軌道を避けようと…「………ッ!!」遅かった。めりめりという音と共に、凶刃が我の右肩を破壊する。皮膚を裂き、腱を断ち、筋肉を潰し、鎖骨を砕くその一閃。「…焦っているのですか? それとも、迷っているのですか? 黒きに白銀を湛える旅人よ」ともすれば霞んでしまいそうな瞳で、彼女を見据え。そうして一つ、囁く。
『俺は旅人だ。何者にも縛られないし、何者をも縛らない』そう言い放ったのは誰だったか。痛みに噎ぶ頭では、生憎と思い出せないけれど。でも、今の貴女は何かに囚われていると感じたから。率直な疑問を口にした。ただ、ソレだけの事。もし互いに生きていたら、問いの答えを聞けるだろうか。彼我の距離はゼロ。左腕に魔力を込める。耐え得るならば貴女の勝ち。耐えられなければ我の勝ち。ソレは優しい、けれど重く容赦無い一撃。気絶を誘う掌底を少女の鳩尾へと撃ち込んだ。
弾む心臓と呼吸と興奮。刃を、肩に叩きつける。かつて言葉を交わしたことのある相手の。かつて助けてもらった相手の。そんな人の、肉の裂ける感触。「…」この剣は。何の剣だ。冷水を被ったように、頭が、背中が冷えていく。目の前の、彼女の肩にめり込ませた我が剣。「…ぁ…」…ボクは、何をしている?顔を上げれば、自分を見据える赤黒の瞳。その瞳に、呼吸が詰まる。『…焦っているのですか? それとも、迷っているのですか?黒きに白銀を湛える旅人よ』――心臓が痛いぐらい跳ね上がった。焦っているのか。迷っているのか。だなんて。
「ボクは…」呼吸が。うまく。「ボクは…」声が。うまく。――ドッ!!衝撃。足元から一気に力が抜け、どっと相手にもたれかかる。脇腹から溢れ出た血が、地面に血溜りを作っているのがわかる。そろそろ限界か。「…貴女の言う通りだ」彼女の肩に身体を預けながら、声をなんとか絞り出す。「焦りも迷いも…消えない、ボクは、いつ…」いつ、本当に自由に?「ゼレナリュシュさん…ごめんなさい…貴女は…」優しい人だね――と朦朧とする意識の中で言えたのか届いたのか。わからないが。剣が手から落ちる音と、身体が大きく傾く感覚。それを最後に、意識がブツンと途切れた。
倒れ込んでくるその身体を抱き留めた。意識を失ったのか、瞳は閉じられ。聞こえるのは静かな呼吸だけ。斬られた右肩は、まるで焼き鏝を押し付けられたかのように熱く。貫き刺さったままの氷矢は、我の体力を際限無しに奪う。「…全く、手の掛かる事ですわ」だが、此所で昏倒する訳にもいかない。我の腕の中で眠る彼女は、此のままであれば確実に死亡する。先程まで交わされていた剣と魔術の応酬は、そういう次元の代物だ。着衣を破り、出血夥しい少女の右腕をキツく縛る。傷を凍結してしまえば、我の右肩も少しは保つであろう。
抱き上げた彼女の身体は驚く程に軽い。確か、此の路地を出てすぐの所に悪夢の救護施設が在った筈。打倒した敵を自ら介抱するなんて、非効率極まる行為ではある。情が移った訳では無い。恩を売る積りもない。敢えて理由を挙げるとするなら―――『焦りも迷いも…消えない、ボクは、いつ…』そう言った時の貴女の貌が、堪らなく美しく見えたから。ただ、何もこんな所で死ぬ事は無いと思っただけ。救護施設の扉を潜ると、看護師のマジシャンが出迎えてくれた。その彼に闇エルフの少女を預け、我もベッドに腰掛ける。魔術に依る治癒、復元を可能とする此所ならば、二人の傷も大した問題ではないであろう。
問題が残っていると言えば残っているのだが。さて、どう致しましょうか。司令部に向かう途中、潜伏していた敵の奇襲を受ける。迎撃し、これらを殲滅したが、民間人を一名巻き込んだ。当該民間人は闇エルフ族の女性。現在トラーゼンにて治療中。ん、こんな感じで良いかしら。流石にこれだけの大怪我を「階段から落ちてしまいましたの」で片付ける訳にもいくまい。虚偽である事に違いはないけれど。ただ、作戦会議無断欠席の咎めを考えると…そんな憂鬱な気分になりながら。そして。貴女の言葉の、その続きが何だったのか考えながら。ベッドの上で治療を受ける少女の横顔を眺めていた。
「…ん」瞼を押し上げると、視界がぼんやりしていた。しっかりしろ。目。右手で目を擦って――「!!!」思わず手の甲を見る。ついでに、手の甲の向こうに天井が見える。さらに、自分がまだ生きていることを理解する。「右手…が…」傷が、塞がっている。何事も無かったかのように。あんな、盾代わりに右腕を捨てるなんて無茶をしたのに。(無茶、というか…)身体に力が入らない。ぽす、と額に右手を置く。(潰れてしまえ、とか思ったんだ。きっと)
何気なく横を見る。「――…」驚きに目をみはる。何故なら、隣にいたのは。ゆっくりと、身体を起こす。脇腹まで治っていることに、もう驚いたりはしない。それ以上に、貴女が居ることに驚いた。「ゼレナリュシュさん…何故…」貴女の勝ちであったのに。ボクを、殺せただろうに。彼女がボクを助けてくれたこと。何も訊かずとも、わかった。何故、敵を助けたりなど。ああでも――生きている。ボクも。貴女も。「…感謝します…」言葉にならない、様々な思いで胸がいっぱいで。何だか泣きそうな、掠れた声で感謝を述べた。